こんにちは。キノコ社長です。東京で貿易とWebメディアの会社を経営しています。
頭が良かったり感性が鋭かったりする人は、昔も今も成功しやすいタイプです。
しかし、その優れた能力ゆえに生きづらさを抱えているのではないかなあとも思います。
1969年にも、その頭の良さ・感性の鋭さゆえに自ら命を絶ってしまった女性がいました。
その人の名前は高野悦子さん。彼女の日記「二十歳の原点」は死後ベストセラーになり、生きづらさを抱える人を中心に、今も読まれ続けています。
青春を失うと人間は死ぬ
青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。
今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばよいのか。独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという個体の完成にむかって、ただ歩まなければならぬ。
頭が良い人・感性が鋭い人は、常に生きる意味や目的を探しています。
高野さんも「青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。」と断言しています。
僕の大好きなニルヴァーナのカート・コバーンも「徐々に色褪せていくなら、いっそ燃え尽きた方がいい」と言って27歳で自殺してしまいました。似ていますよね。
彼らは「小さな幸せに感謝しながら、のほほんと毎日を生きる」というのができないんでしょうね。
でもその頭の良さや感性の鋭さゆえに人を感動させる文章や音楽が書けるんですよね。なんとも皮肉なことですが…。
人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか
ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。
「楽しさってなんだろう?」と深く考えれば考えるほど、虚しさが押し寄せてきませんか?
僕はアラサーになって特に思うんですよね、好奇心や刺激を感じる心が明らかに老化してるなと。
小学生の時はそれこそ「ちんちん」で3~4時間爆笑していられましたし、中学生の時は好きなコとキスをするだけで自分が世界の中心だと思えました。
高校生の時には隠れてタバコを吸うだけでドキドキして、大学生の時は飲み会がめちゃくちゃ楽しかった。
でも大人になると、「ちんちん」も「キス」も「タバコ」も「飲み会」も全て新鮮味が無くなっていきます。
若い頃はそれらの楽しみのために生きていられましたが、それらがもはや楽しみでは無くなってしまった今、何をモチベーションにムカつく取引先や代わり映えのしない日常に耐えればいいんでしょうか?
そのモチベーションを見つけるのが人生なんでしょうけど、なかなか難しいもんですよね。
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でも自殺することは結局負けなのです
どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何もなくなるのです。死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、それは不可能なことなのです。
と言っていた高野さんは結局20歳6ヶ月で鉄道自殺してしまいました。
ちなみに僕の親友も20代前半で自殺しています。頭が良くて、誰よりも優しい奴でした。
彼はお酒を飲むのが好きで、平日でも何軒もハシゴ酒をしたがりました。僕は5回に1回くらいはとことん付き合いましたが、ほとんどは1~2軒で帰ってました。「次の日早いから」と。
どうせ大した仕事もしていなかったんだから、全部付き合ってやれば良かったなあと最近よく思います。
でも彼はもうこの世にいません。今の僕なら何軒でも飲みに行けるのに、どんなネガティブな相談だってとことん付き合えるのに、それももうできません。
僕も本気で死にたいと思ったことはあります。マンションから飛び降りれば、僕自身は色んな苦悩から解放されて楽になるでしょう。
でも絶対に死にません。誰かが僕と飲みに行きたいと思っても、それをかなえてあげられなくなるからです。
「自殺は負け」かどうかは分かりませんが、自分が死んで傷付くのは自分だけではありません。
頭が良いとか感性が鋭いとか、そんな下らないことは自分の大切な人の心に一生残る傷跡をつけていい理由にはなりません。
僕はこの「二十歳の原点」を読んで、絶対に強く生き抜いていこうと思いました。
でもできれば、高野さんの詩や本をもっと読みたかったな。もうそれもかなわないけれど。
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